近藤寿市郎像 ~豊川用水、三河港、赤羽根港生みの親~
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近寿の三大ホラ ※嶋津隆文著「近藤寿市郎伝」より抜粋 ※文中のスラバヤ市はジャワ島東部に位置するインドネシア第2の都市
豊川用水
(ジャワ島の水利をヒントに)鳳来寺の山に大貯水池をつくり、そこから渥美半島まで通水させ、水不足で苦しむこの地域一帯を大耕作地として整備するという、今日の豊川用水の建設である。(中略)当時、インドネシアは蘭領下にあった。蘭つまりオランダといえば国土の25%が海面下に属する低地の国。その干拓の国の高い水利技術がインドネシアに農業に生かされていたのだ。この高度な水利をみて、寿市郎はまっしぐらに東三河の山川を、すなわち北の鳳来寺山から南の渥美半島の伊良湖岬までの水利を連想したのである。
※豊川用水はかつて旱魃(かんばつ)に悩まされた東三河地域を、キャベツや大葉、電照菊などで農業産出額日本一の産地へ変貌させました
大豊橋港(三河港)
(スラバヤ港をヒントに)豊橋にはまともな港がない、三河湾を総合港として大豊橋港に修築するというものだ。特に河口に大きく広がるスラバヤ港は、ヨーロッパの近代都市そのものと映った。その光景から、豊橋の南を走る梅田川を浜名湖へ開鑿し、浜名湖から堀江の運河を拡張して豊橋港と浜松を連絡するという構想ももったのである。
※2025年3月時点で自動車輸入の台数・金額ともに32年連続で日本一を達成しました
赤羽根港
(スラバヤ港をヒントに)渥美半島の赤羽根村池尻に漁港(避難港)をつくるという「赤羽根港」構想である。ジャワ島での水利技術に触発されて「渥美郡赤羽根町池尻川を避難港兼漁港としたい」と思い立ったと、寿市郎は『今昔物語』でことあるごとに書き記す。そして驚くのはこんじゅの「赤羽根港」のホラは、ここにとどまらなかったことだ。渥美半島の真ん中を南北に切断する形で、もう一つの運河を通す(難所の伊良湖水道を避け、大豊橋港などへの海路近道とするため)ことまで構想していたのだ。
※1952年に、避難港として機能する県内唯一の第4種漁港に指定され、沖合で操業する漁船の安全な避難所として重要な役割を果たしています。
近藤寿市郎の主な功績 ※嶋津隆文著「近藤寿市郎伝」より、また「」内は同書中の(近藤寿市郎著「今昔物語」より抜粋
愛知県議会議員時代
〇インドネシアを視察。三大構想(三大ホラ)を着想
「僕が南洋視察を思い立った原因は、わが国の人口が年々ふえるのをみて、国民生活の安定を期せしむるには農地開発、干拓、水利などの工事を起し、二毛作を奨励するか、また一面海外移民政策を立てるほかなしと考えたのであった。」
〇豊川用水構想を愛知県知事、議会に提唱
「帰朝後鳳来寺山脈の高台に堰堤を築き、大貯水場を造らんと愛知県知事にも議会にも提唱したところ、(中略)<理想としては至極結構なるも、言うべくして行わるる問題にあらずや>と一笑に付し去られ、自分を狂人扱いにして葬った。が、その時独り愛知県耕地課長横田利喜一氏が共鳴してくれた。
〇豊川用水構想を農林省に陳情
横田課長は鳳来寺の山に一大貯水池を作る具体化案を作成する。だがこれも、農林省に陳情するもののやはり取り合わない。一旦はお蔵入りになった寿市郎構想であったが、農林省技師の可知寛一によって計画づくりがさらに具体化する。昭和3年に測量工事に入り、昭和5年に「愛知県渥美・八名郡二郡大規模開墾土地利用計画書(いわゆる可知案)として公表された。寿市郎はこの可知案の実現を求める国への意見書提出を愛知県議会に求め提出させた。
衆議院議員時代
〇豊川用水事業を含む国営開墾に関する建議案を提出、満場一致で通過させた(※建議:明治憲法下で、両議院が政府に対して意見や希望を申し述べること)
「昭和七年二月自分が衆議院議員に当選したから昭和七年六月第六十二議会へ愛知県下豊橋市ほか二郡(渥美、八名)大規模国営開墾実施に関する建議案として自分が提出者となり、大口喜六君始め政友会議員多数の賛成を以て建議したのが始めでした。
それから昭和八年二月第六十四議会には宝飯郡の郡農会長大谷政夫君や同郡の町村会長諸氏が宝飯郡をも加えてくれとの事でしたから、愛知県下一市三郡内原野国営開墾に関する建議案として前年同様自分が提出した。昭和九年三月第六十五議会へは豊橋市他三郡内原野国営開墾に関する建議案として前同様自分が提出した。更に昭和十年三月第六十七議会へ前同様建議案として提出した。此の議案は以上の如く前後四回にわたり提案した。その都度自分は提案の理由を説明し、政府当局も同意の旨を述べ毎回満場一致を以て通過した」(※しかし日中戦争の深刻化のなかで、このプロジェクトは実施されることなく、立ち枯れていく。)
〇豊橋港を指定港湾へ編入に尽力
「昭和九年、僕が代議士の時、港湾協会の役員となり丸茂市長とはかり豊橋港を指定港湾にせんと港湾に最も権威ある工学博士安芸杏一氏を主査として二年がかりで、調査の結果総工費三百八十円で三千トン級の船五艘、百トン以上の小型船二十艘を常時繋留し得る設計が出来上がり、昭和十一年に指定港湾に編入させられた」
豊橋市議時代
〇国の豊橋港建設予算新設に尽力
「僕がいうには、十二年度の予算案は大蔵省の査定がまだ決定しておらぬ。新聞の報ずる処によれば、二、三日に迫っているようであるからまだ運動の余地がある。(中略)僕は親友である大蔵省の参与官の丹下代議士に事情を述べ、ドウセ継続事業であるから、来年度の予算にツラを出しさえすれば金額の多少は論ぜぬ。これが成功せねば豊橋に帰れぬと泣きつくと、丹下君はヨーシ、今夜内務省の予算だから極力奮闘しよう。(中略)すると翌朝、丹下君から僕の処へ電話にて、昨夜徹夜で豊橋港の予算は入れることにした、(中略)事情を聴くと、昭和十二年度より昭和十九年度まで七カ年の継続事業で、総工費五十六万六千円、十二年度より工事に着手することになったと苦心談を聞き、大喜びで礼を言って帰ったが、実に愉快であった。」
豊橋市長時代
〇国の豊浜運河計画調査に協力
「内務省土木局の田淵技師が昭和十八年頃、内務省土木局名古屋出張所長となり在職中、梅田川運河の案を考え、東海の国土策としてこれに継ぐ問題はないと計画設計を造り、三千トン級の船を上げ下げする案を立てる。(中略)約五十名が実地視察をすることになり、岩屋の観音山へ登り、僕が詳細に説明して、その夜は浜名湖の舘山寺へ一泊、翌日弁天島の松月で散開した。その後、田淵所長は自分の管轄内であることから、予算案を内務省議に付し省議は通過したが、戦争中のこととて閣議で否決せられてそのままとなった」
本銅像について
本銅像は昭和35年2月11日に近藤翁寿像建設会によって設置されました。建設会の会長は豊橋商工会議所会頭も務めた東海興業社長であった河合孜郎(しろう)氏。東海興業は近藤寿市郎翁が神野三郎氏、河合孜郎氏とともに昭和21年6月に設立し、初代社長となった建設会社。
赤岩寺林昌英住職は本銅像設置当時に赤岩寺住職だった先々代に、「赤岩山に近藤寿市郎像を設置することになったのは、豊川用水の受益地とふるさと赤羽根を見渡せる地として選ばれたから」という話を聞いたことがあるとのこと。
銅像背面の碑文

碑文の解説

年 表 ※嶋津隆文著「近藤寿市郎伝」より抜粋
| 年 | 寿市郎翁関連 | 社会情勢 |
|---|---|---|
| 明治3年(1870) | 渥美郡高松村で生まれる | |
| 明治15年(1882) | 板垣退助、豊橋・田原歓迎会 | |
| 明治18年(1885) | 上京し明治法律学校に入学 (2か月後に帰郷) | |
| 明治22年(1889) | 大日本帝国憲法発布 | |
| 明治23年(1890) | 高松村書記、明治法律学校校外生 | |
| 明治26年(1893) | 高松村助役 | |
| 明治27年(1894) | 高松村村長に推挙、辞退 | |
| 明治28年(1895) | 政治雑誌「旭光」記者 | |
| 明治34年(1901) | 東海日報記者 | |
| 明治36年(1903) | 渥美郡会議員 | |
| 明治37年(1904) | 新潮報社長 | 日露戦争(~38年) |
| 明治38年(1905) | 高師原に第15師団設置 | |
| 明治44年(1911) | 愛知県会議員 | |
| 大正3年(1914) | 第1次世界大戦 | |
| 大正10年(1921) | インドネシア視察 3大ホラを着想 | |
| 大正11年(1922) | 南洋視察講演会を278回開催 | |
| 大正12年(1923) | 豊川用水構想の県議会提案 | 関東大震災起きる |
| 昭和4年(1929) | 世界大恐慌 | |
| 昭和6年(1931) | 満州事変 | |
| 昭和7年(1932) | 衆院議員 豊川用水の国営事業化可決 | 5.15事件 満州国建国 |
| 昭和11年(1936) | 豊橋市会議員 | 2.26事件 |
| 昭和14年(1939) | 豊橋市助役 | |
| 昭和16年(1941) | 豊橋市長(昭和20年4月まで) | 太平洋戦争 |
| 昭和20年(1945) | 終戦 | |
| 昭和21年(1946) | 東海興業創立 | |
| 昭和22年(1947) | 公職追放 | 日本国憲法発布 |
| 昭和26年(1951) | 東三河天龍特定地域指定 | サンフランシスコ講和条約 |
| 昭和27年(1952) | 豊川用水期成同盟顧問 宇連ダム定礎式 公職追放解除 赤羽根港 第4種港に指定 | |
| 昭和30年(1955) | 豊橋市名誉市民 | |
| 昭和35年(1960) | 死去 | |
| 昭和37年(1962) | 西浦、蒲郡、豊橋、田原の4港統一 三河港開港(港湾法) | |
| 昭和43年(1968) | 豊川用水通水 | |
| 昭和47年(1972) | 豊橋港開港(港則法) |
帝国議会第65議会(昭和9年3月)の議院運営委員会理事会・近藤寿市郎発言 ※嶋津隆文著「近藤寿市郎伝」より抜粋
愛知県東三河を貫通して豊川という川が、アノ東海道線の上からご覧になってもご承知の如く流れております。左程距離の長い川ではありませんが、三河三大河の一つであります。この川の上流に堰堤を築いて大貯水池を設ければこの灌漑用水によって農民が救われるという長年の悲願達成が本案の主眼であります。
豊橋市の高師原、天伯原、渥美郡細谷原、老津原、百々原、黒川原、比留輪原、亀山原、保美原など百町歩も二百町歩も草や小松の生えている原が沢山ある。また宝飯郡におきましても何百町歩、何千町歩という原があります。その他八名郡の原野並びに渥美半島の海面に於いては田原湾、 福江湾などを埋め立てまして、これらの開墾開拓を致しますれば一万町歩以上の耕地が出来るのであります。一万町歩も得られる耕地が、何故今日まで開墾せられなかったか。(中略)この辺の土地は一帯が酸性土壌でありまして、禿山で俗に不良土と称し痩せ地でありますから、開墾致しましても収穫物は価の最も安いサツマイモか大根くらいしか獲れないのです。
広大なる土地を有しておりましても何の役にも立ちません。それかと申して植林にも適しませずご承知の通り小松原で棄ててあったのであります。処が、この酸性土壌は水が掛りますれば土地そのものが水の為に腐敗しまして痩せ地が肥えた土地になるのであります。然るに、アノ辺は 地下水も利きませず、それかというて豊川の河水は千二百町歩の神野新田用水と松原用水に取られました外は、水力発電やイカダ流しの便に利用され、それ以上灌漑用水に取るべき余地がない。止むを得ず、山手の高台に大堰堤を築き一大貯水池を設ける外ないのであります。これはかつて私が蘭領東印度(今日のインドネシア) など視察致しました時見て参りました。アノ国では高い山にでも灌漑用水を鉄管で以てあげる様になっております。
ご承知の如く和蘭は非常に水利に長けた処でありますが、これらを見て参りまして東三河地方もどうかああいう風にしたならばよかろうという処から、この案を立てたのであります。
処が昨年はアノ大豊作であったにも拘らず、渥美郡外三、四郡即ち東三河一市五郡に亘りまして何百町歩というものが水不足のため植付不能に及び、また植付けても枯れ死して稔るまでにはとても至らなかったのであります。税務署即ち大蔵省に向かって租税の減免を願っておる。既に許可になったものもあります。隣県とか同じ県内でも尾張地方は肥沃の土地で水の常にあり余る処、川水の利く処は平年より何倍の収穫があったという昨年のアノ豊作にこの地方は只今申上げた状態で、何百町歩というものが収穫皆無に終わったのであります。農民が米を買って食わねば生活が出来ないという次第で、農村疲弊は非常なドン底に落ちている、その上にこの様な悲惨な状態になっているのであります。
かくの如き開墾に対する主要工事を政府は数年前から調査はしておられるけれども、早く工を起こして進んでおられましたならば昨年のような悲惨をみることはなかったであろうということが、ここになお一つ急速を要する理由が加わってきたのであります。
政府におかれましても、かつて田中(義一)内閣時代にこれらの開墾につきまして大規模国営開墾として調査され、引き続き調査費も予算に計上されましたけれども、これがかの浜口(雄幸) 内閣の緊縮政策のもとで縮められました。ために一時はこの国営開鑿の調査費は一文もなく、項目まで削られそうでありました。これは愛知県ばかりでなく京都府および福島県あるいは鹿児島、岩手など各県にかような処がありましたので、猛烈に運動をいたしました結果、どうやら、こうやら予算の項目だけ存して、その後若槻(礼次郎)内閣になり、ようやく有望なるものであると認められ、だんだん調査をするようになったのではありますが、容易に進みません。陳情、嘆願を繰り返しているところの者から申しますれば、皮肉なことを申上げるようですが、政府は調査調査に名を借り、ただやるやるとばかり言っても出来ないのでは、ただいま申上げた通り悲惨な状態に陥るのでありますから、財政上の御都合も あるでしょうが、なるべく急速にこの主要工事を起工せられ、そうして国営をもって開髪をいたしますれば、痩せた荒地が肥えた土地になる。
愛知県の同じ三河にあります安城という、日本のデンマークと称せられている処の土地も、やはりこの通りの土地でありました。ですが、あの明治用水、枝垂用水という矢作川の用水が出来たから日本のデンマークといわれるような処になったのであります。
これに鑑みましても、この豊橋市ほか三郡にわたる土地の開墾及び開拓をいたしますれば、優に一万町歩以上の耕地が得られるのであります。これは必ずしも米を獲らなければならないという意味ではないのであります。米があり余るならば蔬菜といたしましてもよろしい。気候の良いことは実に天然の温室とも称すべきで、東京、大阪、名古屋地方へ一二月中にお正月用の食膳にのせるサヤえんどうを出す処は、いま申し上げました渥美半島の如き処であります。こういう処を開墾いたしまして、有利有益にいたしますことが、すなわち今日の農村振興の一端となり、また国益ともなり、人口増殖に対する食糧問題解決の一端ともなりますから、この工(事)は一日も早く起こされんことを希望するがゆえ、この案を提出した次第であります。また本案の如き、決して一地方の問題ではないと存じますから、満場のご賛成を持って可決相なるようご尽力のほど、ひとえにお願いする次第であります。
